金網を使ったアート「ネットアート」

 ネットアートの 思想 高取秀彰






 


[ 制約と省略の美しさ ]

 
 立体作品なのに,何とか四角いネット一枚だけで表現してしまおうというのがネットアートの最大の特徴です。対象の表面を丸ごとフォローしきれないのは当然のことで、足りない部分をどうするか、余ったネットをどう処理するかが表現のポイントになります。他の彫刻とは違う、この造形独特の表現がここから生まれます。


 ふつう、人が思い浮かべる彫刻とは、対象全体をいわば丸のまま素材に置き換えた形でしょう。でもミロのヴィナスやサモトラケのニケのように一部が無かったり欠けたりしているものも立派に彫刻として成立しているし、むしろ表現のプラスになっていることは否定できません。


 よく考えれば、多くの人が当たり前のことと思っている胸像だって、要らない部分を省略した"完成していない"造形です。無理に丸ごとの形を追うことより、表現の"芯"の密度を高めることが肝心なのです。


 ネットという平面素材で立体表面をどうしても全部作るとなれば、 当然素材の裁断とつぎはぎが必要になります。考えられるのは、たとえば「ねぶた」人形のように、組み立てたフレームに網をつぎはぎして張込み、対象の形を追って行く方法でしょう。


 しかし目障りな継ぎ目やそのためのフレームは網目の流れを断ち切ります。それは透ける効果を生命とするネットアートにとって本末転倒の致命傷とさえなりかねません。

 

 そんな理由から私は"完全な"立体より立体の"成立ぎりぎり"の表現を選んだのです。たとえば作品「朝凪」は腕も足先も省くことによって、靄の中にたたずむ少女の姿を表現しています。


 一枚の平面で立体を表現しようとするならば、対象の中で必要な部 分はどこか、捨てる部分はどこかを思い切りよく見極めなければ到底出来る筈がありません。うずくまる女体「静象」は背中の表情を見せるだけで顔は作ってないのです。


 

  話が少し飛躍しますが、俳句の表現の妙は,五七五の十七文字という制約を設定して初めて生じるものだと思います。もっと分かり易く云いましょう。手を使ってはいけないからこそサッカーは面白いのです。芸術表現は枠との葛藤の面白さともいえるでしょう。細長いネットの帯を自在に回して造形した「酒神」は、その葛藤の中から生まれた作品です。


[エッジラインとモアレ]

  限界がある平面素材で立体を表現する手法は、思いがけない他の効果も生み出しました。形に合わせて裁断することをしないため、ネットのエッジが自然に形作る裏側のラインは形を通して透けて見えます。「微風」や「風の舞」「闘神」のシルエットに見られるように具象の力学がたまたま抽象形体を生み、メッシュが重なるモアレ効果と共鳴して不思議な美しさが得られるのです。


 

 

 

 

 



[三次元を超えて]

 最後に、途方もなく漠然とした、しかしスケールが大きい話にお付き合い下さい。古代以降、彫刻というものは三次元の質量感を基盤にした、人間が直観できる世界での表現でした。

 

 しかし最新の科学では、われわれが住む宇宙は有限でありながら無限、人間が決して体感することの出来ない多次元空間だとされているようです。

 

 もし新しい宇宙観に新しい芸術が対応するとすれば、ネットというものはまさしくそれに相応しい素材の一つだと思います。私がその可能性を感じているのは素材の表裏面を反転させる手法です。

 

 作品「花象」や「闘神」では右半身と左半身の裏表が反転し、「酒神」では長 い帯状の素材が数回反転を重ねてメビウスの輪のように構成されています。二次元平面に包まれながら三次元さえ超越する、まさに有限であって無限の空間、非日常的で不安定な世界は新しい小宇宙への想いなのです。


 
 しかしいくら四次元宇宙の表現などと云っても、人間の情感とつながらない無機質な世界では芸術の意味がありません。宇宙"観"とは人間の目線で見るということです。

 


 

 古典的な形体を取る理由も一つはそこにあります。一枚の四角いネットという素朴な語り手に精一杯の演技を求めて、わかり易い形から入って新しい"ものの見方"の世界を探ってみたいのです。

 < おわり >

 
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